私がスチールカメラを持ったのは昭和26年ごろだったと思う、遠い昔の事でハッキリとは思いだせないが、当時国産ではキャノンニコンが一流とされていた現在も同じかもしれないが、一般には蛇腹式の6×4か6×6の6枚撮り又は12枚撮りのフイルムの裏に紙が有り写す番号が書いてあった、蛇腹式は折りたためて手軽であり旅行に持って行くのに良かった、その後2眼レフがはやりだした、当時のメーカーはヤシカ、マミヤ、ミノルタ、オリンパス、リコー、ドイツのロライコードなどは2眼レフの憧れの的、アサヒが国産の一眼レフで高級品、だがシャッター振動が大きくて私などはシャッターぶれを起したもの、35ミリ判のキャノンやニコンはフイルムを写真屋でカートリッチに入れてもらい、予備のカートリッチも有り、それも持っていった、映画用の35ミリのフイルムを使用していたためであり、その後カートリッチにフイルムが入ったマガジンが売り出された、距離計付きのライカーなどは憧れの的であった、マウント式でレンズが交換できた、キャノン、ニコンもバヨネットマウントで交換が出来た、現在のようにズームレンズが無かったように思う、交換レンズは28ミリ広角、50ミリ標準、100ミリより300ミリの固定の望遠レンズであり、150ミリ以上のレンズは高くて手が出なかった、ライカーのフオーカルプレンシャッターの音が心地よく響いたものでした、当時のカメラは距離計が付いていれば高級機、だが機械式、絞りもシャッターも手動で自動などは無く、フラッシュも後付けそれも電球式で一回の使い捨て、プロなどはマグネシュ-ムを使っていた、セルフタイマーも跡付けでありました。

押入れに暗室まがいの部屋を作って引き伸ばし器もラッキーと言う機種にフジノンのレンズを装置して、現像から引延しまで名刺より半切までは自分で行っていた、あちらの撮影会、此方の撮影会とよく写しに行った、その内にカラーフイルムが輸入されて来た、アメリカのイーストマンコダックだ、直ぐにフジフイルムや小西六桜フイルムもカラーのネガフイルムを出してきたのは言うに及ばない、そうなると一般的にカラーの写真が当たり前の時代となって自分で現像して焼き伸ばして仕上る楽しみが薄れてくる、妙なもので簡単に誰にでも美しく写せるようになるとこの趣味も半減してきて、現在はカメラもフイルム式は使い捨てカメラもあり、デジタルカメラも沢山出回って高画質かしてきた、私は、昭和32年頃には見向きもしなくなってきた。

:それ以後現在に至るもフイルム仕様のカメラは仕事以外には使っていない、いわづとも現に仕事はしていないが。