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昭和27年頃より二輪車と共に車にも乗り出した、当時の自動車免許は四輪の部で小型と普通の二種類だけであった、最初に買ったのは中古の米車の兵隊シボと言われたシボレーの3500CCの黒色のフアストバック型、駐留軍が日本に持ち込んで来た物である、当時5万円の大金で有った、国産車は「ダットサン」日産製、オオタ、トヨタ、各社750CC〜3000CCの車であった、トヨタは初の1000CCのトヨペットを発売していたように思うが定かではない、シボレーも一年近く乗ってフオードに乗り換える、この車のエンジンの部品がトヨタのトラックのエンジン部品と共通していた部分も有った、当時は電気周りは6Vでへットライとも暗く、スターターも一発でかからないしろもの、タイヤーはホワイトリボンと言って白いリングが入っていてラジオはミニ
チュア真空管式でエンジンを止めては聞けなかった、直ぐにバッテリーが上がってしまうからだ、「昭和33年に運転免許書が改正、よく覚えている、同じく売春禁止法が成立したからだ、四輪免許は小型四輪が廃止繰り上がり普通二種に、普通免許は大型二種と同じく繰り上がる、私は当然大型二種と成った」、そんな時代に車を次から次にと乗り継ぐ、ビック、パッカード、ダッチ、スチュードべーカー、カイザー、最後の米車はマーキュリーだった。その後ドイツのカルマンギア−クペーに乗り換える、この車も2年ほどで乗り換える、その後国産車に変更した、日本の技術力もたいしたもので、米車のエンジンはサイドバルブ、(SV)が主流、ヨーロッパの小型車のエンジンはへットバルブ(OHV)に成っていて、国産車もOHVのエンジンに代わってきた、国産車を
最初に乗ったのはプリンス自動車工業のグロリア、この車は国産初の四輪独立式で有ったように思う、日産も以前よりイギリスのオースチンを国産化し日野自動車もルノーを製作、いすず自動車はヒルマンと各社ヨーロッパの車メーカーと手を握っていた、トヨタは以前よりフオードの技術を取り入れていた、プリンスは日産に吸収され日産プリンスとなる、年を追うごとに車も進化して排気量も2000CCの上限が解除される、マツダも乗用車製作、その後NSU開発のロータリーエンジンを独自で開発し実用化した、のホンダも四輪の製作を開始する、ホンダは二輪車の経験を元にホンダS600を開発国産初のツーシーターのス
ポーツカーを送り出してきた、私の関わった自動車のエンジンもサイドバルブからへットバルブに変わり現在はオバーへットカムと進化をしてきた、キャブレーたーは過去の遺物となりインジェクションとなり、現在はコンビユーター制御に成っている、私も昭和40年頃より2〜5年置きに国産車を乗り継いできた、昭和45〜7年ごろにスパーカーブームかおとすれた、当時は私も子育て最中と他にしていた趣味も有ったので、興味が無いわけでも無かったが買う気にはならなかった。平成4年に昔のイタリヤのアルフーアーロメオのWDOHCのエンジンが忘れられず、探してみたが程よい車が見つからず、同じイタリヤの1992年マセラッティ222SRを購入して現在乗っている、私の乗った車の中で一番長く乗り続けている、
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この車の故障は世界一と言われているが、それは国産車と比べればの話で、けっこう故障も自分で修理して楽しんでいる、車もふだんの足と言う事で使うならば国産車に勝る外車は無いだろう、燃費、故障、消耗品の経費、車体の価額、どれを取っても自分の足として使用するのであれば国産車が一番である。趣味として考えるとそこに自分の付加価値を求める、又同じマセラッティでも今のフィアット参加に成って型が変わってしまうと今までのデトマソ、マセラテイの持ち味がなくなってしまった。 今後私を満足さしてくれる車、運転していて楽しい車、小さくて性能の良い国産車、親爺が趣味として乗れる車を希望します。 |
上の写真女房とホンダS600昭和40年 | |
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