昭和31大阪にある住之江競艇場よりランナーボート5万円で買った、これが私とモーターボートの付き合いの始まりです、舟艇はベニヤ板でエンジンは大和の350CC2気筒の2サイクル、28馬力、イノシシエンジンでエンジンの上に付いているローラーにロープを巻きつけて引っ張ってスタートさす、エンジンが掛かると直結しているスクリーユーが回転して飛び出してゆく、こんなボートで二色浜から友ヶ島まで行ったことも有った、結局3,4回は転覆したが、これで水上スキーも始めた。当時は私の住んでいる所から波打ち際まで約300メートル、浜には漁船がそろばんと言う丸たん棒を組み合わせた台を砂浜に置いてその上をロープを使って引き上げていた、エンジン付きの漁船はプロペラシャフトを引き上げと言う上下に動くのシャフトでスクリューを引き上げていた、大きい船は焼玉エンジン、小型の漁船は電気チャ−ッカーと言ってガソリンで始動し石油に切り替える発動機でした、だが手漕ぎの船の方が大半であり、地網引きの網船は六丁の櫓で漕いでいた、その当時はこの辺りでは堺、石津、泉大津の一部、岸和田、佐野、ぐらいしか港は無く、浜寺海水浴場、助松海水浴場、が有ったがこの二つは埋め立てられ、現在は大阪湾も平均2キロ〜4キロ以上も埋め立てられて、昔の面影を残すのは箱作より南の海岸ぐらいであろう、そんな砂浜より水上スキーを引っ張って走っていた、その後当時としては本格的なボートが日東坊が売り出した14フィートのランナーボートFRP製、エンジンマーキュリーの50馬力、2サイクル4気筒、セルスターター、この艇を当時船台車に乗せてトヨペットマスターで引っ張って、出きたての名神高速の入り口ゲートで、ボートけん引車の金額は掲示されて居ず、普通車の金額で通過し、琵琶湖によく遊びに行った、その次に買ったのは永大産業のベニヤで製作した17フィートエンジンはボルボの75馬力4気筒、ドライブはインアウトでジョンソンでした、装備はコンパスのみ、この艇で初めて淡路島に行く、遠くは沼島、伊島、瀬戸内は高松までの行動範囲、その頃二色の浜で初めてヨットハバーが出来た、同じ頃大阪マリーナ−も出来て艇数が少なかったので一年間大阪マリーナ−で無料で預かってもらった事も有りました、その後この艇を売却しヤマハの18フィート初めてのキャビンクルーザーに乗り換える、この艇はボトムのVがキック、波のクッションを吸収するストライプが付いていて当時としては波が悪くてもスピードが出せた、エンジンはボルボの150馬力、6気筒インアウトドライブ、ボルボ製、船尾に固定のスタビライザーが付いていました、この艇で九州の別府に行き帰りに瀬戸内の丸亀沖でエンジントラブル、予備の船外機をセットして帰ってきました、後にエンジンを解体すると、バルブが減っていた、九州で燃料補給した際にガソリン屋が間違ってレギュラーガソリンを入れた為であった、「仕様はハイオク」その年の夏大阪の天神祭を見物に行き、川を上って行くとキャビントップが橋下に接近そんな所が三ケ所ど有った、                     
天満橋に到着し天神祭りも見物し一泊、明くる朝出航する、大阪湾に出ると波が高く風もきつい、一つ一つ波を乗り越えて進む、それでもボトムが叩かれてスピードが出せない、沖を見るとヨットがすいすい走っているように見える、しばらくして再度見ると我々と同じぐらいの艇速だ、ヨットはこんな波や風の方は良く走るもんだなーと、思った、その後しばらくこの艇に乗っていたが、燃費の悪さと風波がきつくなればスピードが出せない事もあり昭和
42年に売却して、ヨットに乗り換える事になった。