私は8ミリムービーに興味を持ったのは昭和42年の長男誕の時だった、これらの記録を撮っておくと言う事で初めたのであったが、結局は記録など撮らずじまいのままであった、当時はW8からコダックのスーパー8、シングル8に代わりつつあり、フジフイルムもけっこう力を入れていた、モノクロームとカラーのフイルムが有り所詮カラーを選択する、フイルムはフジカシングルエイトと言い、320秒で1200円現像料は400円けっこう高くつく、30分ほどの作品を作るのに、12本ほどのフイルムを消化した、カメラはズーム三倍程度の物で、映写機はエルモのWSの兼用の物であった、S8は18コマW8は16コマでした、急速にこれらの機材も進化して、カメラは六倍ズームとなり、映写機はハローゲンのランプが使用されてきた、後には磁気式の同録の機材まで出来てきた。私がはじめた当時はまだ出ていなかったので、録音などはテープレコーダーに擬音を入れ音楽をミックスして映写機と同期を取り映写をしていた、テープレコーダーも当時はオープンテープで一秒間で19センチの録音帯を必要とした、フジフイルムのフジカシネグループ、エルモ同好会などと言うクラブが全国に支部として存在していて私も二つのグループに席を置いていて、一ヶ月に一回例会が開催されていた、そうすると少なくとも各月に一本のフイルムを持って行かねば成らず、けっこういそがしい趣味と成った、年に二回ぐらいの撮影会が各クラブで開催 
されいたが私たちのグループで春は桜、夏には海山、秋には紅葉、冬には神社やお寺に撮影によく行った、ストーリーは、どのようなものでも、起承転結、何処で誰が何をしてどうなったか、と言うストリーに仕上がってくる、内容は子供の記録、旅行の記録、に初まって、出来るまで映画とか山川地蔵とか、良く言ったものです、行程は先ず素材を探すロケハン、コンテ台本の作成、撮影、編集、音入れ、此れで出来上がりです、撮影をしてフイルムを現像に出す、仕上がって来て見てみると思うように撮れていない、再度撮影に行く、そしてフイルムが仕上がってくる、これより編集にかかる、スプライサーと言う鋏でカットごとに切り離して順序に従って入れ替えて行く、カット割りにしたフイルムを部屋の中で洗濯物よろしくクリップで吊るして、確認をして順序良く一本に貼り付けてゆく、仕上がったフイルムを映写して、気に入らない所は再度入れ替えたりカットしたりして一覧楽、次にバックに流す音楽の選曲ナレーターの準備、フイルムを回して秒カットでデータ
-を取ってそれに合わせて録音開始、合わないと又作り変える、結局時間との戦いとなる、仕上がって音と同期を取って映写、これで作品の仕上がりと成る。昭和48年頃には同禄の機種も出来たが、音楽は後から入れる事になるが現在も同じである、昭和53,4年頃に家庭用のビデオが出てきてビデオに押されてきた、当時のビデオはモノクロームでカメラとテープがセパレート式に成っていて肩からテープデッキをぶら下げて撮影した、当時としてはまだフイルムに人気が有ったがこれらを機に私はフイルムムービーをやめてしまった。当時より撮ったフイルムは現在でも沢山あるがお蔵入りの状態で、光に当てていないのでカべが来ているかもしれないが、私に取ってはその時々の思い出の品物である。                      
         
小学校の運動会撮影風景